~無医村を救った慈愛の医師~ 松山京子先生(みやぎの先人集より)
このたび、 大正時代や昭和時代に活躍した宮城県にゆかりのある人たちの生き方をまとめた、『みやぎの先人集第二章、未来への架け橋』が宮城県教育委員会から発刊されました。
先人の生き方を学ぶとして、本町でも小学校高学年の道徳の授業で活用されているとのことです。
この本に、当時の金ケ瀬村で医院を開業し、『県民の母』第1号となった松山京子先生が紹介されています。
私の母の話しによれば、幼い頃ひきつけを起こしては松山医院にお世話になったと良く聞かされました。
心配のあまり「この子大丈夫でしょうか」と何度も京子先生に訪ねたそうですが、「ひきつけは頭の良い証拠ですよ」とにこやかに返してくれたそうです。(事実とは違ったかもしれませんが…)
私と同年代の町民の間では、こういったエピソードが数多く語り継がれているのではないでしょうか。
何ともありがたく、懐かしくもあって目頭が熱くなる思いです。
京子先生は、仙台空襲で家を焼かれ当時の小山田村に間借りしながら患者を診ていたそうですが、腕のいい女医さんとして評判だったとのことです。
無医村だった金ケ瀬村の村長や助役が何度も熱心に開院のお願いに通った結果、ついに承諾を得ることになりました。
京子先生が43歳の時だったそうです。
その後、家族が仙台に帰ることになっても、京子先生は自分一人が金ケ瀬に残る道を選び、地域医療への貢献と慈愛に満ちた活動を続けることになったのです。
山越えの遠い家でも大雪の凍える夜でも、頼まれれば往診料なしでも出かけたそうです。
そればかりか、生活の苦しい家族からは、「あとでいいのよ」と言って治療代や薬代さえ取らないこともあったようです。
見立てが良くて腕も良く、気さくで明るい誰にでも優しい先生でした。
その豊富な経験と日々学び続けた最新医学の知識によって、当時では助からないと思われた命さえも、とりとめた出来事が伝説のように語り継がれています。
そして、開業から40年以上金ケ瀬で地域医療に尽くされた京子先生は、「金ケ瀬の方々は家族と同じ」と言って親しく接し続けたのでした。
この間、いただいた校医の報酬や講演料で、「心の栄養に」と言って、小中学校へたくさんの本を贈り、今もそれは『松山文庫』として利用されています。
この京子先生の『志』は金ケ瀬の人々に受け継がれ、現在も本の寄贈が続けられています。
また、永年町議会議員を務められた大場吉樹先生が中心になって、京子先生への思いを込めた本『慈愛』の発刊や、その精神を受け継ぐ『慈愛表彰』も継続されてきています。
98歳で京子先生は亡くなられましたが、『我が子を愛するような慈しみの気持ち』である慈愛の精神は、いつまでも人々の心を癒し続ける『未来への架け橋』となるに違いないと願って止まないところです。
2018年3月16日